1 裁判の公開をめぐる2つの事例
【事例a】コロナ感染対策で、裁判所の法廷の傍聴席が3分の1くらいに減らされている。私が担当している高松高裁の看護師のパワハラうつ病の公務災害認定請求事件では、たくさんの傍聴者が来てくれているのに、法廷には10人ちょっとしか入れず、それ以外の20人以上が廊下で待たされた。
【事例b】一方で、1月24日付けの「沖縄タイムス」は、「沖縄県の東村高江周辺への県外機動隊派遣の違法性を問う住民訴訟の弁論が20日、那覇地裁(山口和宏裁判長)で開かれ、県警幹部らの証人尋問があった。事前の傍聴券抽選に多数の警察官が参加したが、開廷すると傍聴席は空席が目立った。抽選に漏れた人がいた住民側は「傍聴する権利の侵害だ」と問題視している。」と報道している。
憲法82条1項は「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。」とし、憲法82条2項但し書きは「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。」と定めている。 この「裁判の公開」の趣旨は、裁判が公平で公正なものであるようにするための「制度的保障」であり、裁判所は「傍聴できる状態」にしさえすればよく、傍聴を希望する国民に「傍聴権」を認めたものではない、と考えられている。
では、【事例a】の場合、たった1、2席でも用意していれば、「公開」したことになるのだろうか。
また、【事例b】で、例えば、傍聴をさせたくない被告側が、金の力で1000人のアルバイトを雇って傍聴券の抽選に参加させ、傍聴席の大部分を独占し、空席にしてしまっても問題ないのだろうか。
このような事態を避けるために、裁判所は、裁判の公開を実質的に確保できるような規則を定めるべきではないだろうか。
2 裁判の「生中継」の意義を考える
これに密接に関連して、裁判の「生中継」の問題がある。現在は、社会的に注目を集めている裁判については、開廷前の2分間だけ、テレビカメラが裁判官たちを撮影することが認められ、それ以外は録音も写真撮影も一切禁止されている(かろうじてメモだけは許されている)。
しかし、これは国民の「知る権利」の保障という観点から見た場合、非常に不十分だと思う。国会で重要法案が議論されているのを国会中継で見ることができるのと同じように、国民の権利義務に関わる重大な事件(例えば夫婦同姓を強制する現行法の違憲性を問う裁判、原発の再稼働の差し止めをめぐる裁判、沖縄の基地をめぐる裁判など)については、テレビやインターネットでの中継を認めることは十分に検討に値する。
日本でも、かつては1950年8月11日の三鷹事件の判決宣告の様子をNHKがニュース動画で報道したことがあった。 https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009182994_00000
お隣の韓国では、2017年7月に法律が改正され、これまで被告の同意を必要としていた裁判の生中継が被告の同意がなくても裁判長が公共の利益にかなうと判断した場合、一審と二審の生中継が認められることになったという。 また、アメリカでは裁判中継は広く行われているし、イギリスでも審理の様子の生中継の試みがなされているようである。
日本の裁判所がこれらに消極的な背景には、裁判所の「司法消極主義」(裁判所は立法府や行政府の判断を尊重し、違憲性が明白でない限り違憲審査を行うべきではないという考え方)や、裁判官の「目立ちたくない」という一種の「事なかれ主義」があると感じる。
もちろん、裁判の当事者や証人のプライバシーへの配慮や、不当なプレッシャーを与えない配慮は必要だが、国民の知る権利や、その裁判の社会的意義を主権者である国民が共有できるようにするという憲法上の要請を両立させることこそが、求められているように思う。
(弁護士 岩城 穣)
(メールニュース「春告鳥メール便 No.33」 2021.1.28発行)