一 はじめに
久保章さんは、九三年九月一六日、大阪府警の取調べ室で突然急性心筋梗塞を発症し、三六歳の若さで亡くなった。
妻のひろ子さんと守口市職労の亀原さんはすぐに関西合同法律事務所の松本七哉・斉藤真行両弁護士に相談し、早くも死亡の一週間後の九月二四日には、両弁護士が解剖医に意見伺いの手紙を出している。一一月下旬、両弁護士が谷英樹弁護士と私に声をかけ、四名で弁護団を結成。九三年一月一七日、阪南合同法律事務所で最初の弁護団会議を行い、その日の午後に田尻町を訪問して町長公室や総務部の人から話を聞き、弁護団としての本格的な活動を開始した。
その三年半後の九七年七月八日、勝利の知らせは前ぶれもなく突然訪れた。長いようで短く、短いようで長い三年半であった。
二 久保事件の特徴
久保事件は、過労死事件といっても、かなり特殊なケースであるし、公務上認定は決して簡単ではない事案であった。
1 公務の質的過重性、心理的ストレスがポイントとなる事案
まず、公務の過重性については、どちらかといえば質的過重性、心理的ストレスが重要な意味を持つ事案であった。
過重負荷の認定にあたっては、どうしても数値で計れる労働時間や深夜勤務など量的な面で判断しがちな傾向がある。久保章さんは朝六時半に家を出て、帰宅が午後一〇時~一一時、夜間を含む現場の監督に奔走し、月に二~三回は泊まり込みをするという生活で、タイムカード上の直前一ヶ月の労働時間は二一六時間、所定労働時間の一・四倍であった。これ以外にタイムカードに現れない帰宅途上の現場立ち寄りもあり、労働時間は長かったが、現在の労災・公災の認定行政では、これだけでは決め手とはなりにくかった。
むしろ、久保さんは、九一年四月に田尻町に転職して以来、下水道工事関係のリーダー的存在として過密・多忙な業務をこなしてきたところへ、九三年四月からは統括責任者の地位を与えられ、業務の過密性と責任の重さは飛躍的に高まった。そこへ、同年八月一九日から、S社・K社(受注業者)による田尻町を被害者とする詐欺被疑事件の捜査が開始され、その取調べ中に倒れたのであり、公務の質的過重性、心理的ストレスが久保さんの急性心筋梗塞の発症に対して大きく作用したと考えられるのである。
2 密室内での発症
しかし、直接の発症は大阪府警の取調室という密室の中であり、警察の秘密体質もあって、その具体的状況の立証は極めて困難であった。当日取調べをした捜査官は、未だに遺族に会おうともしないのである。
3 素因・基礎疾患の存在
久保さんは、健康診断で肥満と高脂血症を指摘されたことがあり、また解剖所見でも動脈硬化、冠動脈の狭窄が見られたとされるなど、一定の素因ないし基礎疾患を有していた。実際、基金支部は、「被災者は従前から全身に動脈硬化が進み、冠動脈には強度の狭窄が生じて、いつ閉塞症状が発症してもおかしくなかったところ、たまたま被災当日の取調べ中に血栓が生じ、当該狭窄部に詰まって完全閉塞に近い状態になったと考えられ、従って、もっぱら被災者の素因が寄与したものである」として、公務外認定を行ったのである。
三 弁護団の基本方針
このような本件の特殊性、困難性に対し、弁護団の立てた基本的な方針は次のようなものであった。
1 「事件の顔」の設定
公務の過重性については、大きくみて三層が重なり合う構造を持っていること、すなわち、① 本件死亡の相当以前から、精神的にも身体的にも激烈過重な業務の連続により疲労が蓄積し、疲弊していた状況のもとで、② 平成五年八月一九日以降開始された、田尻町が発注したS社・K社の関係者の同町に対する詐欺被疑事件の捜査・取調べにより、同町の現場責任者であった者として精神的緊張と不安の日々を余儀なくされ、③ 更に、本件発症の当日である平成五年九月一六日、同町の現場責任者として大阪府警から呼出しを受けて行われた本件刑事事件についての直接の取調べにおいて、担当警察官から厳しい詰問と追及を受けたことにより、ついに本件発症に至ったものであって、本件発症は公務に起因する公務災害であることを主張した。
2 質的過重性の主張立証
とりわけ本件のポイントである質的過重性、心理的ストレスは形として見えないことから、町の同僚職員(四名)や受注業者の現場関係者(二名)らから具体的かつ詳細な陳述書を多数作成することにした。また、妻として夫の様子を間近に見ていたひろ子さんの詳細な陳述書も作成した。
更に、刑事事件の取調べが久保さんに対して決定的な心理的ストレスとなったことについては、刑事事件の弁護人の協力を得て刑事記録や公判記録のコピーをもらい、その詳細な分析を行って、当日までの警察の対応、当日の取調べが極めて厳しいものであったと推測されることを明らかにした。
3 医学的因果関係の主張立証
前記の素因・基礎疾患の存在は軽視できないものと考え、耳原総合病院の山下雅司医師らに協力をお願いして、①動脈硬化や血栓について貴重な教示をいただき、②同医師らの連名で解剖医に質問書を出してもらって解剖医から回答書を得、③更にその後二度にわたり山下医師らの詳細な医師意見書を提出した。
4 審査請求と裁判の二本立ての闘い
九六年二月一五日、基金支部は不当にも公務外認定を行い、三月四日基金支部審査会に審査請求を行った。この公務外認定の取消を求める行政訴訟は、それまでは審査請求後三ヶ月経つと提起することができたが、この年の七月一日から地公災法が改正され、審査請求をしながら行訴を起こすことはできなくなることになっていた。そこで、六月四日から六月三〇日までの間に行訴を提起すれば、「滑り込み」で審査請求と行訴の両方の手続が可能であったことから、我々は六月二六日付で行訴を提起した。本件が、時期的にこのような最後のチャンスに恵まれたことは幸運であった。
5 裁判での公務災害認定基準についての論争
裁判の中で基金支部の代理人の弁護士が漏らしたところでは、この裁判での基金支部側の主張立証はすべて基金本部が直接管理し、準備書面の内容もすべて本部の決裁が必要とのことであった。
裁判において基金支部側が、現在採っている認定基準の正当性とその本件への当てはめの正当性を主張してきたのに対し、我々は右認定基準の不明確な点、取調べが「引き金」となったことは認めながら、因果関係を否定する不合理さについて詳細な釈明を求めた。また近時の最高裁判例から見ても、行政がこれまで採ってきた相対的有力原因説の不当性を明らかにしていく予定であった。
このように、この裁判は一地方の事件を超えて、実質的には基金本部との闘いになっており、審査請求の認容、行訴の取下げという形で事件を収束させたのは、基金本部の何らかの政治的判断があった可能性があると思われる。
四 勝利とその要因
1 審査請求手続では、口頭意見陳述を多数が傍聴し、積極的に論争を挑んだものの、裁判を並行して行っていることからも、結論は厳しいと予測していた。また、裁判はまだ弁論段階のヤマ場で、証拠調べにも入っていなかった。にもかかわらず、勝利は意外にも、審査請求認容という形で飛び込んできた。
決定の理由は、①発症前一ヶ月に従事した業務は、本件疾病を発症させる程過重なものであったと認めることはできないが、②被災者が監督している工事に絡む刑事事件に関して、相当程度の精神的な負荷を徐々に受けていた、③発症当日、初めて行く府警本部内の狭い取調室において二名の捜査員からの事情聴取に応じたことが、精神的負荷を急激に高めた、④解剖医の所見によると、被災者の左冠動脈の動脈硬化の程度は中等度であり、必ずしも安静時に虚血状態を起こすとは限らないとしている、として、公務起因性を認めた。
2 最初に述べたように、決して公務上認定が容易ではなかった本件が、判決を待たずに、行政レベルで支部審査会の公務上認定を勝ち取ることができた要因は、①ひろ子さんの頑張り、②支援体制、③弁護団の活動、④それらの相互の結合・結束といった多方面からの分析が必要であるが、全体として見れば、これらのいずれもが大きな力を発揮し、相乗的に作用して、我々が思っていた以上に基金側を追い込んでいたのではないかと思う。
個別に見ると、①②については、ひろ子さんご本人や支援の会などから分析がなされることと思うが、③については、右に述べたような弁護団の基本方針が正しかったこと、それを弁護団とひろ子さん、支援の会が協力して正確かつ地道に実践したことが勝利の最大の要因の一つであったことは間違いない。また、④についても、弁護団はひろ子さんや支援の会との相互理解と結束を大切にし、運動的にもそれなりの協力をしてきたと思う。
3 改めて振り返れば、いろいろなことが思い出される。田尻町に何度も足を運んだこと、九四年一二月二日、冷たい風の吹きすさぶ日に府庁内の基金支部に公務災害申請をしたこと、九五年二月二一日のMBSのテレビ報道とそのための取材、数えきれないほどの弁護団会議、山下医師をはじめ医師の方々に何度も話を聞きに行ったこと、傍聴者であふれる法廷での弁論‥‥。
このような闘いに、弁護団の一員として参加できたことを嬉しく思い、また勝利に貢献できたことを誇りに思う。
おめでとう、久保ひろ子さん!
亀原さんをはじめ、支援の会の方々、本当にご苦労さまでした。
(「久保事件勝利報告集」より 1997年1月1日)