一、土川由子さん(死亡当時23歳)は、1996年4月、専門学校卒業と同時に、広告デザイン会社ジ・アース(社員約12名)にデザイナーとして就職したが、超長時間労働の中で体調不調を訴え、98年3月末に退職したものの、同年4月7日、クモ膜下出血で死亡した。
ジ・アース社では「フレックス制」と「年俸制」をとっていると標榜し、給料はいくら働いても17、8万円、由子さんの2年目の労働日数は310日、総労働時間は少なく見積もっても3547時間に及んでいた。
当時の脳・心臓疾患についての過労死認定基準では、発症前1週間の業務の過重性を評価することになっており、退職1週間後の死亡は、この認定基準ではおよそ認定され得ないと考えられたことから、ご両親は、由子さんの命日の99年4月7日、会社を被告として損害賠償請求訴訟を提起した。
提訴段階では、勝利の展望は必ずしも見えていなかったが、その後次のような劇的な展開をたどった。
二、まず、この提訴の報道を受けて、天満労基署はジ・アース社と社長を残業代不払いと健康診断不実施で捜査・送検し、刑事裁判の結果、両者に各罰金40万円が言い渡された(00年8月)。 これは当時としては画期的なことであり、その後の各地での刑事摘発、01年6月の労働基準オンブズマンの結成、後述の02年2月12日の厚労省通達(「過重労働による業務上の疾病を発生させた事業場であって労働基準関係法令違反が認められるものについては、司法処分を含めて厳正に対処する。」) などにつながっていった。
三、訴訟では由子さんの労働の実態や医学的因果関係について激しい論争が行われ、01年11月12日には、法廷に入りきれない90人もの傍聴者が見つめる中、集中証拠調べが行われた。弁護団は02年1月28日の結審期日前に、膨大な最終準備書面を提出し、判決期日は4月22日と指定された。
ところが、結審直前に会社側から和解の申し出があり、02年2月7日、急転直下和解が成立した。和解条項は、①会社と社長は連帯して4000万円を両親に支払う、②由子さんの死亡と業務の因果関係を認め、労災申請に協力する、③由子さんの業務管理・健康管理を怠ったことを謝罪する、というもので、文字どおり完全勝利の内容であった。
四、01年11月15日、6か月間の蓄積疲労を評価の対象とすべきであるとする「脳・心臓疾患の認定基準に関する専門検討会」の報告書が出されたことから、同月29日、天満労基署に労災申請を行った。意見書とともに民事訴訟の記録のほとんどを提出し、何度か協議を重ねた結果、去る5月14日、わずか6か月のスピード認定で、業務上の認定がなされた。労基署には、もはや業務上認定しか道は残されていなかったといえる。
五、このような劇的な勝利をもたらした要因は何か。
何よりもまず、お母さんの慶子さん、お父さんの純一さん、妹の麻子さんの家族が一体となり、勝利への執念を燃やし続けたこと、タイムカードがほとんど打刻されていない中で、約20人に及ぶ社員や元社員、友人たちから聞き取りを行ったことが挙げられる。
次に、支援の会とその広がりである。支援の会は、99年6月純一さんが所属する高速オフセット労働組合と、由子さんの友人やかつての教師などの個人が手を携えて結成され、ニュース「カラーパープル」の発行、ホームページの開設、法廷傍聴の動員など、大きな力を発揮した。
また、電通事件や東京海上支店長付き運転手事件の最高裁判決をはじめとする判例の動き、新認定基準の制定(01年12月15日)や労働時間管理通達(01年4月6日)、健康障害防止通達(02年2月12日)などの労働行政の動き、そしてサービス残業と慢性疲労に苦しむ人々の世論が追い風となったこともいうまでもない。
さらに、本件では、健康であった若い女性が、退職1週間後にクモ膜下出血を発症することの医学的根拠も問われたが、松葉和己医師に迫力ある意見書を書いていただき、また新宮正医師にも相談に乗っていただいたことは大きな意義があった。この点は和解解決となったため裁判所の判断は得られなかったが、増えつつある若者の過労死を解明する上で、今後に生きる貴重な成果といえよう。
最後に、手前味噌ではあるが、弁護団の方針の正しさと頑張りを挙げることも許されよう。
土川事件は、土川さん家族、支援の会と弁護団が一体となって、医師の方々の貴重な協力と世論の支援を得ながら、文字どおり勝利を切り開いた闘いであったと思う。
ご支援、ご協力下さった皆さんに、改めて心から感謝を申し上げたい。
(弁護団は、松丸正、田中俊、岡本満喜子と私の4名であった。)
(民主法律時報361号・2002年6月)