昨年(1997年)、立て続けに2件の女性の過労疾患の事件を受任した。
一 1件は、昨年職員の水増しによる診療報酬の不正受給で理事長が逮捕された安田系三病院のうち、大阪円生病院でヘルパーをしていたNさん(発症当時53歳)である。
Nさんは午前8時から翌朝午前10時までの26時間勤務し、その翌日の午前八時に再び出勤する。休日は全くなく、一階を担当する4人のヘルパーが2人ずつ交代で30人の患者の面倒をみ、予備の人員が全くいないため、どんなに体がしんどくても休めない。仕事は患者の着替えや食事の介助、おしめの取り替えなどの本来の業務のほか、看護婦不足のために本来なら看護婦が行う床ずれの消毒や検温、酸素吸入、更には院内の警備巡回やトイレの掃除までさせられていた。仮眠室や休憩室はなく、休憩時間や食事時間もなかった。空調設備はあったが動かすことが禁じられ、夏は猛暑、冬は極寒の中での業務であった。また、新聞でも報じられたが、患者が亡くなったり減ったりすると「互助会費」の名目で、ただでさえ少ない給料から「罰金」が差し引かれていた。
Nさんは昨年2月17日未明、病院のトイレで脳梗塞を発症し、失語症と右半身マヒの重い後遺障害が残っている。
息子さんから相談を受けた私たちは直ちに弁護団を組み(片山文雄、当事務所の蒲田弁護士との3名)、97年8月、大阪南労働基準監督署に労災申請を行った。その後病院の資料がほとんど警察に押収され、更に病院が閉鎖されたが、元同僚のヘルパーの方の陳述書や息子さんの陳述書を提出するなどして労基署と交渉している。
二 もう1件は、生鮮食料品等の加工販売会社で経理課長をしていたSさん(発症当時48歳)である。
この会社はMという人物のワンマン会社で、いくつものトンネル会社があった。Sさんはその不明朗な経理全般をさせられ、またMの秘書的な立場で苦情の処理や借金の取立てに対する対応までさせられていた。毎日午前9時~10時に家を出、帰宅は深夜11時~午前2時半にも及び、徹夜もしばしばであった。土曜日や日曜日もほとんど出勤し、更に自宅に持ち帰ってワープロを打ったりしていた。
96年8月、五名の経理担当社員が一度に退職してから業務が著しく増加し、また9月ころから「もう会社がつぶれる」「いくら社員を募集しても来ないし、来ても会社の実態を知ったら辞めていく」「私も後任者のためのマニュアルを作ってから辞めたい」ともらしていた。そのうえ年末に更に3名の社員が辞め、業務が全く回らなくなった。そのためSさんは、12月30日の徹夜業務でこじらせた風邪を押して1月3日から出勤、一日も休みがとれないまま、ついに 1月14日、昼食中に脳血栓を発症したのである。幸い命はとりとめたが、先のNさんと同様、失語症、右半身マヒ、記銘力障害の重い後遺障害が残っている。
26歳の息子さんが97年2月、伊丹労基署に労災申請をしたが、Mから「労災申請には協力するが、会社には責任追及しないという念書を入れろ」と要求されたことから、相談を受けた。すぐに弁護団を結成し(松丸正、小切間俊司、松山理香の4名)、関係者からの聞き取りや労基署交渉を進めている。
三 どちらの女性も、責任感が強く、使用者から与えられた無理難題を悩みながら必死で処理する中で倒れている。非道な使用者に対する怒りを新たにするが、過労死や過労疾患は決して男性だけではなく、過重な労働は最後は人間を破壊してしまう、ということを改めて知らされる事件である。
【弁護士 岩城 穣】(いずみ第7号「弁護士活動日誌」1998/2/10発行)
※1つ目の事件は、その後労基署で労災認定がなされ、医療法人らに対して起こした民事訴訟でも勝利和解した。
2つ目の事件も、その後労基署で労災認定がなされた。