2011年5月25日
今年5月21日、裁判員制度の開始(平成21年5月21日)から2年が経過した。
最高裁の発表によれば、今年3月末までで
① 選ばれた裁判員 11,889人
② 選ばれた補充裁判員 4,241人
③ 1事件あたりの開廷回数 平均3.8回
④ 1事件あたりの評議時間 平均8時間34分
⑤ 公判前整理手続にかかった期間 平均5.4か月
とのことである。
また、最高検によれば、今年4月末までで
① 裁判員裁判の判決を受けた被告人 2,126人
② 実刑判決を受けた被告人 2,126人
③ 無罪判決を受けた被告人 8人
であったとのことである(以上、朝日新聞5月21日付け)。
まず何よりも、この間裁判員裁判の手続きに関与された市民の皆さん、裁判官・検察官・弁護人の皆さんをはじめ、関係者の皆さんのご苦労・ご努力に、心から敬意を表したい。
私は、一般論としては、裁判員制度は国民が三権の一つである司法に積極的に参加し、国民の健全な良識(社会通念)を司法に反映する民主的な制度の一形態として、積極的な意義があると考えてきた。
しかし、いざ、実際始まってみると、さまざまな問題が指摘されており、また弁護士の中からも、厳しい批判がなされている。
この点、私自身はまだ裁判員裁判の弁護人を経験したことがなく(同じ事務所の弁護士や親しい弁護士たちの多くは、既に経験している)、余り発言権がないと感じているので、もう少し見守っていきたい。
私がここで問題提起しておきたいのは、裁判員裁判の対象を、民事訴訟・行政訴訟のうち社会的な関心・影響の大きいものにも広げるべきではないか、ということである。
現在の裁判制度の建前では、裁判官は「最も良識ある社会人」であるはずであるが、実際は必ずしもそうではない。人間の「良識」は、結局のところ学生時代までの「勉強」と、その後の「社会経験」で決まると思うが、大学やロースクール、司法試験での「勉強」だけで世の中がわかるはずはなく、裁判官になった後の「社会経験」は、狭い裁判所と宿舎の範囲にとどまり、貧弱といわざるを得ないからである。
例えば、私が日常的に関わっている労働事件や過労死事件についていえば、自ら憲法上の権利であるビラまきや署名運動を行った経験もない裁判官が、それを尾行され不当逮捕された人の気持ちがわかるのか。
自らサービス残業や持ち帰り残業を日常的に行い、労働組合もない裁判官が、サービス残業代を請求したり、組合を結成したら不利益を受けた労働者の気持ちがわかるのか。
欠陥住宅事件や日照・眺望事件でいえば、例えば、官舎住まいしかしていない裁判官に、欠陥住宅をつかまされた人の苦悩がわかるのか。
眺望がいいとセールストークをされて買ったマンションの目の前に、別のマンションを建てられた人の悔しさがわかるのか。
私は、「裁判官にはわからない」とか「わかっていない」とは言わない。しかし、「裁判官だけがわかっているというのは傲慢そのものである」ことを強調したいのである。
民事訴訟や行政訴訟に裁判員制度が導入されれば、一般市民の裁判員と一緒に合議することにより、裁判官自身にとっても「世間の空気」に触れる機会になる。普通の市民である裁判員たちの感覚や意見は裁判官たちにとって極めて新鮮で、刺激的なことは間違いない。
この点については、裁判員裁判の実に1年も前に、作家の高村薫さんが、時事通信の「社会時評」(中日新聞平成19年5月18日付けなど)で、次のように述べている。
「さて、裁判員制度なるものが民意を裁判に反映させるために導入されるのであれば、なぜ死刑か無期かを争うような刑事裁判から始まるのだろうか。血まみれの犯罪死体の写真を一般市民にさらし、強姦等の一部始終をいちいち読み聞かせるのが、開かれた法廷だというのだろうか。
民意を広く社会常識と捉えるなら、それを活かすところは、加害者も被害者も個人である刑事事件ではなく、むしろ公害訴訟や薬害訴訟、あるいは近年増加している労働訴訟や行政訴訟のほうだろうと思う。裁判の長期化の弊害はこうした民事裁判も同様であるし、公害問題や労働問題は私たちにとってより大きな問題であり得る。(中略)想像してみよう。もし薬害肝炎訴訟を私たち裁判員が裁いていたなら、はるか昔に国と製薬会社の責任を認めて賠償を命じていたはずだ。」
まさに、卓見だと思う。裁判員の方々に、極めて難しい重大刑事事件の事実認定と量刑を行う能力があるならば、公害、薬害、労働(セクハラ・パワハラ、解雇・雇止め、偽装請負、使用者性や労働者性など)、労災(過労死・過労自殺など)、行政事件(一票の格差、自治体の違法支出など)について判断能力がないはずがない。
ちなみに、日本が何かにつけお手本にするアメリカでは、刑事及び民事双方の陪審裁判を受ける権利が憲法上規定されており、ほとんどの事件(刑事では1年以上の懲役刑、民事では20ドル以上の請求)が陪審裁判に付されているようである。
日本でも、民事・行政訴訟への裁判員制度の導入が、本格的に議論されるべき時期に来ているのではないだろうか。
<「岩城弁護士のはばかり日記」No.25 (2011年5月25日)より>