1 5月14日、与党は「日本国憲法の改正手続に関する法律」(改憲手続法、国民投票法)を参院本会議で強行可決・成立させ、5月18日公布された。3年後の2010年5月18日、施行される。
国の基本法である憲法の改正手続という重大な法律であるにもかかわらず、ほとんどの国民がこの法案の中身も知らない状態で、形ばかりの拙速な審議をして強行可決したことは極めて遺憾である。
そもそも、現在の衆議院は小泉前首相が「郵政民営化」を唯一の争点にした選挙で自民党が絶対多数を握ったものだし、参議院も三年前の改選時は憲法改正はまったく争点とされなかった。こんな国会で、教育基本法改悪や防衛省設置法、在日米軍再編促進法といった国の基本を定める法律が次々と強行されている。主権者である国民を冒涜しているといわなければならない。
2 しかも、今回制定された国民投票法は、(1)国会の発議から投票までの期間が最短六〇日と極めて短い、(2)最低投票率の定めがなく国民の一、二割の賛成でも憲法が改定されてしまう可能性がある、(3)憲法擁護義務(九九条)を負う公務員や、未来の主権者を育てる教員が改正反対の運動をすると「地位を利用した」として処罰される、(4)巨額の資金を持つ政党や団体がマスコミを使って広告・宣伝を自由に行えるなど、重大な問題がある。
3 もちろん、憲法自体が九六条で自らの改正を予定している以上、一切の改正が許されないというわけではない。しかし、改正の目玉として宣伝されている環境権やプライバシー権などは、現在の憲法(一三条や二五条など)で保障されているというのがこれまでの政府や裁判所の考え方である。
今、憲法改正を声高に叫んでいる勢力は、戦前回帰を理想とする復古的国家主義(靖国派)と、国内では貧困と格差拡大を治安強化で抑え、海外では武力を背景に経済進出を強めようという新自由主義である。その狙いは、(1)九条を変えて自衛隊を軍隊にし、「アメリカと一緒に戦争できる国」にする、(2)憲法を「政府や権力を縛る法」から「国民に説教し権利を制限する法」に変質させる、(3)改正の要件(九六条)を緩和し、今後は改正しやすくする、ことにある。このことは、自民党の改正草案や、この間の教育基本法改悪、防衛省設置法の制定などから明らかである。
このような憲法の基本理念を改変することは、憲法の「改正」ではなく「破壊」であり許されないというのが憲法学上の通説である。
4 歴史を振り返ると、明治憲法(一八八九年~一九四五年)下の五六年間のうち二三年間(約四割)、日本は四つの戦争(日清、日露、第一次、第二次世界大戦)に明け暮れ、幾百千万人の人間を殺し、また殺された。これと対照的に、戦後六二年間、世界各地でたくさんの戦争があったにもかかわらず(朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガン、イラクなど)、私たち日本人は戦争で誰一人殺さず、また殺されなかった。これは何よりも現在の憲法九条と、もう戦争はこりごりだという国民の願いによるものである。
しかし、戦争を体験した人々は姿を消しつつあり、他方、格差や不公正の広がりの中で、不満のはけ口を排外主義や戦争に求める雰囲気も出てきているように思う。
ドイツでは、一九一九年にワイマール憲法が制定されてから、一九三三年ナチスが不況に不満を持つ若者などに熱狂的に支持されて選挙で圧勝し、独裁体制を敷くまでわずか一四年間であった。
今の日本の状況は、この頃のドイツに似ているという指摘もある。 もちろん、時代も世界情勢も、当時と今は違う。しかし、ファシズムはしばしば「民主主義の仮面」をつけてやって来ること、いったん暴走を始めると止めることは容易でないことを、忘れてはならないと思う。数年前の「小泉旋風」や今の安倍首相の「美しい国」を掲げながらの強引なやり方を見ていると、その思いをいっそう強くする。
5 しかし、戦後六〇年間でつちかわれてきたものも、決して小さくはない。憲法九条改悪反対の一致点で作られた「九条の会」はすでに六〇〇〇を超えた。
今という時代を、悪い意味の「歴史の転換点」にするのではなく、戦後六〇年間育ててきた平和・人権・民主主義が新たな段階を迎えるため試練の時期だととらえて、私たちも努力していきたい。
【弁護士 岩城 穣】(いずみ第22号「オアシス」2007/8/1発行)