1、プロローグ──昼下がりの電話
1991年4月7日昼頃、同期の山名弁護士から私の自宅に電話があった。
山名「実は、僕のマンションの隣にスナックビルが建てられようとしてんのや。建築・使用禁止の仮処分の申立をしたいので、代理人になってくれへんか。住民の数は30~40名くらいや」
私 「そやけど、環境が悪くなるというだけでは勝つのは苦しいんとちゃうか」
山名「いやいや、相手方のK住宅は、住民に対して、カラオケやスナックは入れないという約束を書面でしてるんや。絶対に勝てるで」
私 「それやったら見込みあるな。ほならやってみよか」
この安易なOKが、これから6ヵ月近くの間の言語を絶する戦いの幕開けになろうとは、当時は思いもよらなかった。同期の石井義人、山本勝敏、41期の村田浩治の各弁護士も同じように「安易な」OKをし、申立人の一人でもある山名弁護士を含めた5名の弁護団は、かくして結成されたのである。
2、本件に至るまでの経過
本件の舞台は、住之江区北加賀屋の住宅と町工場が密集する地域である。山名弁護士のマンション「ハイムS」の隣の土地は、昭和63年ころ地上げされて以来、一体何ができるのかと住民は不安に思っていた。
平成2年5月、K住宅の社員が挨拶に訪れ、「分譲マンションを作ります」などと説明した。
6月8日、町会の主催でK住宅の説明会が開かれ、K住宅は「ワンルームは作らない」「従来この場所にあったような店舗(定食屋、散髪屋、喫茶店など)を入れる」などと言明し、更に同月下旬には、町会などが提出した「風俗的な業者を入れないでほしい」「ワンルームを作らないでほしい」という要望書に対して、「了解しました」と回答した。
これで住民は安心し、その後建物の建設が始まっても特に心配はしていなかった。
3、驚き、そして怒りの爆発
平成3年4月3日、建物の工事用テントが取り外されて、住民は仰天した。そこには、2階から4階までに35のカラオケスナック、5階から7階まではほとんどがワンルーム的な居室として作られた、巨大なネオン看板の建物が出現したのである。
4月18日、K住宅は住民に対して説明会を行ったが、K住宅は「昨年秋頃に計画を変更した」と答え、住民の抗議に対して「床面積21.5平方メートルあるのでワンルームではない」「カラオケスナックは風俗営業法にいう風俗営業ではない」など開き直り、交渉は決裂した。
4月20日の緊急住民集会には約70名もの住民が集まり、「近隣環境を守る会」が結成されて事務局が設置され、建築禁止・使用禁止の仮処分申請をすること、やれる限りの反対運動を展開することが満場一致で採択された。ここに戦いの火ぶたは切って落とされたのである。
4、地域を揺り動かした2ヵ月間
4月22日、89名の住民が債権者となって仮処分を申請した。その後債権者が追加され、総数は299名に達した(最終的には293名)。審尋は4月30日、5月10日、5月24日と3回行われ、その後6月15日が主張立証の期限とされた。
この間、弁護団も住民も、「やれることは全部やる」という方針で、連日連夜のように奮闘した。住民はすべての審尋に30名前後が参加し、その足で大阪市の監察課に建築基準法による是正指導を要求した(その結果5月17日には1階の駐車場以外への使用禁止命令が出された)。署名はまたたく間に3500を突破し、6月には4500にまで達した。ハイム住之江の入口の前には巨大な「約束違反のスナックビル反対」のタレ幕がかけられ、付近には数千枚のポスターが張りめぐらされ、駅でのビラまきも行われて、地域の雰囲気は一変した。問題のビルの前では入居者募集をするK住宅の社員と住民の間で小競り合いがおこるなど、さながら「内戦」のようであった。
他方弁護団は準備書面(5本)や意見書、陳述書をはじめとする数多くの書証を提出し、裁判官にも三度面接交渉を行った。
運動が盛り上がる中で、5月下旬には、K住宅には建築基準法違反の前科があり、その内容は住民への約束違反、行政指導無視という点で本件と共通していることがわかり、その調査報告と刑事記録を書証として提出した。これはK住宅に最後の一撃を与えるに十分なものであった。
6月15日の結審後、約1ヵ月間の静けさが訪れた。住民も弁護団も落ちつかなかった。「勝てないはずはない、しかし法的にはいつ、誰との間で『合意』が認定されるのか」「もし負けたらどうするのか」「保証金は幾らになるのか、集められるのか」・・・・
5、やった、認容だ!しかし‥‥保証金が4000万円!
7月15日、住民勝利の仮処分決定が出された(大阪地裁平成3年7月15日決定)。決定は、平成2年6月8日の説明会の場で、債権者のうち町会構成員とK住宅の間で『カラオケスナックは作らない』という合意が成立したと認定し、債権者のうち186名について申立の一部を認容し、本件建物の2階から4階をカラオケ・スナックとして使用してはならない、というものであった。しかし、この決定は4000万円もの保証金を条件としていた。恐らく裁判所は、事実認定が微妙な分を保証金でバランスをとったのであろう。
われわれ弁護団は、せいぜい1000万円くらいまでだと考えていただけに、諦めの気持ちも生じた。それまでに集まったカンパでさえ、96万円に過ぎなかったからである。
7月20日、住民集会が開かれた。自分たちの主張が裁判所に認められた喜びとともに、保証金の余りの大きさに対する苦渋に満ちた討論が続けられた。その結果、①出来るかぎり認容債権者全員の支払保証委託の委任状を集めること、②現実の出資は、運動を中心に行ってきた約50名が、一人100万円前後を出資してやりきること、が確認されたのである。私はこの討論に、民主主義の英知と強さをみる思いがした。
そして7月25日、ついに住民たちは4000万円の立担保をやりきったのである。
6、起訴命令・保全取消申立の送達による動揺との戦い
8月上旬、認容債権者全員の自宅に、起訴命令と保全取消申立書が立て続けに送達されてきた。これは、仮処分手続きをよく知らないで、運動に協力したいという思いで債権者となり認容された住民層に大きな動揺を与えた。「裁判所から呼び出されたりしてどうしてくれるのか」「こんなことになるのなら降ろさせてくれ」‥‥事務局に苦情と抗議が殺到した。中にはK住宅に「勘弁して下さい」と泣きを入れたり、裁判所に取下書を出したりする者も出る始末であった。
事務局は住民に対する手続きの説明と本訴の原告承諾署名を集めることに務め、8月20日、何とか法定の期間内に本訴提起にこぎつけた。保証金の問題に続いて、本当に苦しい期間であった。
7、攻勢的交渉により、有利な和解へ
これらと平行する形で、7月20日過ぎからK住宅の代理人との間で交渉が繰り返し持たれた。本件は基本的に有利な和解をして収めるのが望ましいというのは、大多数の住民の意向であった。疲労感や厭戦気分がなかったとは言えないが、住民全体としては、勝利の決定を得、保証金を積みきったという自信のもとに意気軒昂であり、和解交渉は攻勢的に進められた。
その結果出てきた和解の基本線は、2階から4階の3フロアーのうち、1フロアーのみスナックとしての使用を認め、残る2フロアーはアルコールを扱わない店を入れるというものであり、あとは看板やネオン、営業時間、解決金などの問題であった。K住宅はこれらのほとんどを受諾し、9月2日の交渉で、ほぼ最終案がまとまった。9月7日には、この最終案を採択する住民集会が予定されていた。
8、土壇場のつまづき--銀行の資金ストップの圧力
ところが9月4日夜、山名弁護士のところに相手方代理人から電話が入り、「実はK住宅がメインバンクから『このような和解条項では採算が取れるはずはない。このような和解をするのなら新規の融資は保留する』と言われた。会社で検討したところ、残る2フロアーもカラオケにしたいと言っている。私も辞任することになるかも知れない」とのことであった。
9、9月26日、ついに和解成立
それからまた約半月間、この問題をめぐって交渉が続けられた。どうやら銀行の圧力は事実のようであり、K住宅が倒産の危機に瀕しているのは明らかであった。K住宅の社長は心労で入院した。
交渉の結果、最終的には、これまでに合意された和解条項を基本として、2年間の経過措置を設け、その間は残る2フロアーをカラオケボックスとして厳しい条件のもとで使用を認める、ということになった。
そして9月26日、ついに裁判上の和解が成立し、事件は最終的に解決したのである。
10月中に支払われた解決金は、裁判費用・弁護士費用のほか、保証金のために多額の出資をした人、運動にカンパしてくれた個人や団体、仮処分や本訴の申立人となった人々全員に納得の行く形で配分された。
10、終わりに
わずか5ヵ月半の間という期間であったが、その間弁護団会議約30回、住民集会6回、裁判所での審尋や面接11回など、弁護団の活動も記録的であった。時間が合わないために午後10時から深夜に及ぶ弁護団会議、朝9時や夜9時半からの交渉なども何度もあった。
このような住民と一体となった激烈な戦いをやりきったことは、住民たちにとっても、私たち5人の若手弁護士にとっても、素晴らしい経験となった。
しかし、この勝利の最大の立役者は、何といっても山名夫妻である。山名弁護士は申立人兼代理人であり、奥さんのY子さんは「近隣環境を守る会」の事務局の中心メンバーとして、弁護団と住民の橋渡し役として昼夜分かたず献身的に奮闘した。この二人を抜きにしてこの裁判闘争はありえなかったし、勝利することもなかったであろう。
静かな環境で暮らしたい、健全な環境で子供たちを育てたい--一見弱々しくみえるそんな要求も、住民と弁護団、裁判の歯車が噛み合えばこれほど大きな力となって勝利できる。そのことを身体で実感した6ヵ月であった。
11月2日、運動の中心となった住民たちが自費でささやかな祝賀会を開き、私たち弁護団も招待された。ともに全力を尽くし、勝利した解放感の中で、仲間たちと酌み交わした美酒の味を、私は生涯忘れることはないであろう。
弁護士 岩城 穣(自由法曹団大阪支部ニュース1992年2月2日号)