平岡過労死裁判の完全勝利和解について

一、はじめに
 既にご承知の方も多いと思うが、株式会社椿本精工で過労死した故平岡憎さんの遺族(妻チエ子さん、長女友子さん、長男省吾さん)が、会社の健康配慮義務違反を理由として、慰謝料など5500万円の支払いを求めて大阪地裁に提訴していた損害賠償裁判が、去る11月17日、和解解決した。
  和解の内容は、①会社側が悟さんの死亡が会社の健康配慮義務違反によるものであることを認めて謝罪し、②請求金額のほぼ満額の5000万円を支払うというもので、会社側の謝罪が入るという意味で判決以上の意義を持つ、画期的な全面勝利の和解である。
  本事件は、過労死110番運動の象徴的事件として、マスコミでも報道され、広く知られていると思うが、改めて簡単に事案を紹介するとともに、本件勝利和解の意義について述べてみたい。

二、平岡事件とは
 故平岡悟さんの勤めていた椿本精工は、ボールベアリング用の鋼球などを製造する会社で、悟さんは被災当時同社の葛城工場のS2工場の班長(班員約30名)として勤務していた。同社は当時、昼夜勤一週間交替の「2直2交替制」の勤務体制を取っており、1988年3月1日からの株式一部上場に向けてフル稼働し、恒常的な「引き継ぎ残業」、休日出勤が行われていた。
 悟さんは「冠不全」の基礎疾病があり、健康診断でたびたび心臓について「要精検」「要観察」の診断がなされていたにもかかわらず、右のような勤務体制と人員不足のもとで、班長としての生産及び班員の管理業務と共に、自ら現場の作業に中心的に従事することを余儀なくされ、一部上場を1週間後にひかえた88年2月23日自宅で急性心不全を発症し、48歳で亡くなった。
 悟さんの死亡前1年間の労働時間は実に3500時間に及び、死亡した年の1月4日から死亡する2月23日までの51日間の間、暦日の休日はおろか24時間連続の休日すらないという凄まじいものであった。
 チエ子さんら遺族は、悟さんの死去直後の88年4月、全国に先駆けて大阪過労死問題連絡会が開設した「過労死110番」に相談し、労災申請に取り組むことになった。支援の輪が広がるなか、89年5月17日奈良葛城労基署は、現在の厳しい認定基準のもとで、画期的な業務上の認定を行った。
 ところが、チエ子さんらが泣きながら喜んだその日の夜のテレビで報じられた会社のコメントは、「会社は平岡さんの労働を強いたものではない。本人が自ら進んで働いたと認識している」というものであった。このことへの怒りが原動力となって、チエ子さんらは90年5月16日、本件損害賠償裁判を提起した。

三、本件の争点と裁判の展開
1、本件の主要な争点は、①異常なまでの長時間労働が「会社の強制」か「率先労働」か、②会社の「健康配慮義務」か労働者の「自己保健義務」かということであった。約1年半、8回にわたって行われた弁論では、これらの点について激しい論争が行われた。
2、ところが、証拠調べに入って事態は一変した。証拠調べは、会社内部に原告側に協力してくれる労働者がいなかったため、工場長、労務部長、S2班の担当係長という敵性証人の尋問から入っていくという異例の方法をとらざるを得なかったが、その中で、前述のような理屈の問題以前に、会社における凄まじい労働の実態、労働者の健康管理に全く配慮していないことが次々と明らかになっていったのである。
 例えば、労働実態については、恒常的な引き継ぎ残業とそのための残業の割当て、事実上24時間全てを働かせられる「青天井」の36協定、悟さんの極限的なまでの超長時間過密労働の生々しい実態などであり、健康管理については、法律上設置が義務づけられている産業医も置いていなかったこと、心臓に基礎疾病を持つ悟さんの健康に全く配慮していなかったこと、悟さんが死亡した後の安全衛生委員会で、そのことが議題にさえのぼらなかったことなどである。

四、裁判闘争の盛り上がりと「裁判官の飛躍」
1、提訴の時点では、悟さんの労働実態が極めて過酷であったことは当然わかってはいたが、会社の自己保健義務論や率先労働論、予見可能性の問題などの理論的な面でも、会社内に協力者がいないという立証の面でも、壁は余りに高く感じられ、勝利するためには長く苦しい闘いが続くのではないかと思われた。そして実際法廷で弁論が始まっても、当初は決して攻勢的な雰囲気とはいえなかった。

2、ところが、証拠調べが開始された後の一定の時点で、確かに法廷の雰囲気が変わり、明らかに形勢は逆転し、その雰囲気は、係長の尋問が終了するころに最高潮に達していたというのが実感である。
 和解が成立し事件が解決した今でも、次に予定されていたチエ子さんの原告本人尋問をはじめこれからも攻勢的に裁判が続くような錯覚にとらわれているのは、決して私だけではないだろう。このような感覚が、右のような盛り上がりの何よりの証左ではないかと思う。
 このことを、今や流行語となっている宇賀神弁護士の「裁判官の飛躍」論に引きつけて少し考えてみたい。

3、まず、本件において、裁判官が「飛躍」したことは明らかである。
敵性証人3名を調べ終わった段階で今回の裁判所の和解勧告となったこと、我々弁護団が半ば無理だと思いつつ裁判所に掟出した「謝罪+5000万円」の和解案を、裁判所が自らの和解案として会社側に突きつけ、説得しきったこと、和解成立の席で裁判長がチエ子さんたちを暖かく激励し、会社側に「これからは正しい労働環境を作るように」と要望したことは、このことを雄弁に物語っていよう。

4、その要因として考えられるのは、弁護団の奮闘、支援連動の広がりと高揚である。手前味噌になるが、弁護団は松丸弁護士以外は全て39期~43期の若手弁護士ばかりであったが、過労死をなくしたいという思い、過労死弁護団の誇りをかけて全力投球したと思う。

5、しかし、何よりもこの裁判の勝利を決定づけたのは、支援運動の広がりと高揚である。「平岡過労死裁判を支援する会」は、会員わずか数十名と事務局数名の組織であったが、チエ子さんら遺族を先頭に、各地での訴えや毎月23日(悟さんの命日の工場門前でのビラまきなど、地道な活動を続けてきた。労働組合の組織的な動員はなかったが、傍聴者は次第に増えていった。半分くらいは初めての参加者で、その人が次に傍聴者を誘って参加するという形で支援が広がっていき、今年に入ってからは202号の大法廷をほほ埋め尽くすところにまでなった。毎回の法廷終了後行われた、弁護士会館の修習生室での交流会の参加者もどんどん増え、最後は椅子が足らず、半分くらいの人が周りに立つところまで広がった。学生が誘い合ったりゼミ単位で参加するなど、青年や学生が関心を持って参加したことも特徴であった。
 このような支援の広がりと高揚の契機となったのが、92年の8月と12月に行われた、平岡事件を中心的なモデルとした劇「突然の明日」の上演運動である。上演運動の収り組みの中で、支援する会の事務局となってくれた人、劇を観てもっと知りたいと思って友人を誘って傍聴に訪れる学生たちなど、素晴らしいネットワークが広がっていき、文字どおり雰囲気を変えたと思う。

6、今振り返ってみると、このような運動の広がりを通じて、運動自身も弁護団も「飛躍」し、そのエネルギーが、執拗に抵抗する会社を予想以上に追い込み、裁判官たちを「飛躍」させ、ついに勝利和解に導いたと思うのである。

五、勝利の意義と今後の闘いについて
 今回の勝利和解は、会社に健康配慮義務違反を認めさせ、謝罪させた点で、請求の認諾以上の完全勝利であり、過労死をなくす闘いにおいて金字塔をうちたて、全国の過労死裁判や労災認定闘争を限りなく励ますものといっても過言でないと思う。
 しかし、我々が過労死の労災認定闘争や裁判を闘っている実感からすれば、ある意味でこれほど条件が揃い、「闘いやすい」事件はなかったともいえる。一般の過労死事件では、過重なノルマ負担により「率先労働」が組織され、タイムカードもなく、労働時間の把握さえ困難な事案が圧倒的だからである。
 また、判決に至らなかったために、率先労働論の克服、健康配慮義務と自己保健義務の関係と過失相殺の問題、会社の予見可能性など、理論的課題についての裁判所の判断は得られなかった。
そのような点を踏まえつつ、今後、この間いと勝利和解から教訓を引き出し、あちこちの過労死裁判、認定闘争にそれを生かしていくことが求められていると思う。

【弁護士 岩城 穣】(民主法律時報279号・1994年12月)