料理店店長の過労自殺事件(エージーフーズ寺西事件)のご紹介

 寺西彰さん(死亡当時49歳)は、京都市内で複数の飲食店を経営する会社の筆頭店の店長を務めていたましが、不況の影響による売上げ減少の中で、年間3000時間を超える長時間労働と社長のパワハラ・左遷人事によってうつ病を発症して自殺しました。
 妻の笑子さんは2年4か月後に大阪の過労死110番に電話し、弁護団(京都の村山晃、浅野則明と岩城)が結成され、京都下労基署に労災申請し業務上認定がなされました(詳細は料理店店長の過労自殺に業務上の認定─寺西事件─をご覧ください)。
 その後会社に民事訴訟を起こし、2005年3月京都地裁で勝訴(京都地裁平成17年3月25日判決、判例時報1895・99、労働判例893・18))後、2審大阪高裁で和解が成立しました。追加提訴した社長個人に対する民事訴訟でも、京都地裁で和解が成立しました。
 笑子さんは、現在「全国過労死を考える家族の会」の代表をされています。

【弁護士 岩城 穣】

<寺西笑子さんからの一言>
 あの日の自分を原点に、未来に挑みたい   寺西 笑子

 1996年2月14日の朝、元気のない夫の後ろ姿を見送ったのが今生の別れになりました。深夜の病室で変わり果てた夫と対面し、投身自殺と聞かされ耳を疑いました。「悪かった。許してくれ」と夫の亡骸に土下座して謝った社長と上司を見て、自殺の原因は会社が強いた過重労働と直感しました。しかし数日経てば、会社側は態度を豹変させ「家庭の問題だった」と開き直りました。地元の弁護士事務所へ駆け込みましたが、当時は過労自殺の判断指針が無いことで、客観的証拠や証言があっても国は労災認定しない、裁判しても難しいという厳しい現実を突き付けられ、1年以上泣き寝入りをしました。嘆き苦しんだ自分と平然としている会社、この違いに納得できず、このままでは身を粉にして働いた夫は浮かばれない、会社と刺し違えたいほどの怒りが込みあがってきました。 

 それでも自信は持てず、再び「自殺は労災認定されない」と言われたら仕方なく諦めようと、わらをもすがる思いで「過労死110番」へ相談しました。電話は岩城先生につながり、事務所を訪ねて相談へ。岩城先生は、「確かに今は自殺については認定基準がなく、労災認定は難しい。しかし、自殺にも認定基準が必要だ。過労死の認定基準も徐々に変わってきているし、変えて行かないといけない。弁護士は認定基準を変えるために頑張っている。社会正義のために一緒に頑張りませんか。」とおっしゃいました。この岩城先生の言葉を受け、他力で結果を求めていた自分を恥じ、闘い挑む決意に目覚めました。

 それから2年後、厚生労働省から過労自殺の認定指針が発表され、さらに2年の審理を経て夫の自殺は過重労働が原因と、労基署で労災認定されました。その後、会社責任を問う民事訴訟を起こし、過失相殺なしの勝訴判決を勝ち取り、高裁において被告の謝罪を受け和解が成立しました。途中、元社長の個人責任を問いたいと考えましたが、「すでに不法行為責任は3年の時効期間が過ぎている。会社を訴えているのだからそれでいいのではないか」という消極論もありました。それでも、岩城先生は賛成して下さり、会社法上の取締役の第三者に対する責任の規定を根拠に提訴しました。その結果、元社長にも非を認めさせ、最後に夫と遺族へ謝罪する和解が成立しました。

 このように、遺族の思いに寄り添ってくださったことで、悔いを残さない闘い方で終えることができました。あのときに岩城先生の言葉がなければ、諦めていたかも知れません。おかげで社会正義に挑む精神を育てられました。また、早々に過労死家族の会をご紹介くださったことで、辛いときや心が折れそうになったとき、仲間から「あきらめたらあかん!」と励まされ一歩を踏み出すことができました。

 気がつけば19年の年月が流れ、7年前から全国過労死を考える家族の会代表という大きな役を担い、今では偉大な先生方とともに「過労死等防止対策推進法」制定に関わり、法律を実効性あるものするための活動に参加しています。 過去は変えられないけれど、未来は変えられます。あの日の自分を原点にして、これからも過労死のない社会の実現に向けて挑み続けていきたいと思います。