ポストドクター(契約社員の研究者)の研究業務の過重性を問う─田辺製薬(現・田辺三菱製薬)中国人契約社員の過労死事件─

1 事案の概要
(1) 中国人のMさんは、中国の大学と大学院を卒業し、吉林省の研究所に勤務した後、1992年、日本政府の国費留学生として、妻のRさんと一緒に来日し、関西の国立大学農学部大学院博士課程に入学。農学博士の学位を取得して卒業後、1995年5月、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)の研究所(大阪市淀川区)に、1年契約の年俸制契約社員として入社した。いわゆるポストドクター(ポスドク)である。ポスドクは、1年ないし2年の間に成果を挙げなければ契約更新されず正社員にもなれない、年俸は安く残業手当も支払われないという、大変不安定な身分である。ましてMさんからすれば外国であり、言語も文化も異なる日本で、研究者として生活していかなければならなかった。
(2) Mさんは、当初は他の研究者の補助的な業務をしていたが、同年10月から始まった抗ガン剤開発のためのテロメラーゼという酵素の研究チームの一員となった。この研究テーマは、成功すればノーベル賞の受賞もあり得るほどの、当時世界でも最先端の研究であり、会社として開発に力を入れていたものであった。
 Mさんは、このような研究に関われることになったことを喜び、文字通り全力で実験や論文の勉強に打ち込んだ。いくつもの実験を並行して行いながら、実験ノートを作成し、数多くの論文を読んだ。しかし、京都の自宅への帰宅は午後10時を過ぎることが多くなり、着替えもしないでそのまま横になるなど、目に見えて疲労困憊していった。10月上旬に行われた人間ドックでは心電図異常を指摘され、また、12月6~9日の名古屋での学会への連日の日帰り参加後の12月11日には会社で頭痛とめまいを訴えて社内にある診療室でしばらく横にならざるを得なかった。
 そして、12月20日朝、いつもどおりの時間に起きることができず、遅刻すると言って朝食も食べず慌てて自宅を出、京都駅に歩いて向かう途中で倒れたのである。救急車で病院に搬送されたが死亡が確認された(当時32歳)。死体検案書に記載された直接死因は、「虚血性心不全の疑い」であった。
(3) 妻のRさんは96年5月、淀川労基署に労災申請したが業務外とされ、その後審査請求したが棄却された。労働保険審査会へ再審査請求を行ったが、実に6年半以上も放置された後2005年2月に棄却された。そこでRさんは同年8月、大阪地裁に行政訴訟を提起し、同年12月には会社を被告とする損害賠償請求訴訟も提起した。

2 争点
① Mさんの労働時間
 会社にはタイムカードはなく、自己申告による出・退社時間を記載した就業表があるだけである。帰宅後も論文を読み、週末には自らが卒業した大学院の実験室に行って勉強するなどしていた。
② Mさんの研究業務の質的過重性
 研究業務は、方法論がない中で独創的に考え、論文を読み、密度の高い実験を繰り返すという特殊性がある。しかも、会社の強い期待を受け、世界的な熾烈な競争に勝って一番乗りにならなければならないというプレッシャーがある。特にMさんのような契約社員の場合、契約期間中に成果を挙げなければならないという「外からの精神的負荷」も強いが、研究者として誇りとやり甲斐を感じ、成果を挙げたいという欲求、いわば「内からの精神的負荷」も強い。

3 関係者の協力による攻勢的な主張立証
(1) 提訴の時点で、我々の手元にあったのは、Mさんが作成していた「実験ノート」と、次年度にかけての研究目標とスケジュール計画を記載した「チャレンジシート」くらいであった。当然のことながら門外漢の私たちにとってはまったくちんぷんかんぷんであり、当時の同僚たちは現在も会社に勤務しており協力は期待できないことから、率直にいって見通しは極めて厳しかった。
(2) しかし、ご自身がもと武田薬品の研究者であった大阪職対連の西田陽子さんのご紹介で、生物化学を専門とする京都工業繊維大学名誉教授の宗川吉汪先生に出会うことができた。日本科学者会議の会員でもある宗川先生は大変温和で誠実な方で、Mさんの実験ノートを検討し、研究者の研究や実験がいかに大変であるか、とりわけMさんの行っていた研究の水準の高さと、ポスドクの地位の不安定さについて意見書を書いて下さり、また裁判所で証言もして下さることになった。私たちにとってはこれ以上のない味方であり、勇気百倍の思いであった。
(3) また、耳原高石診療所の松葉和己先生に医学意見書の作成をお願いしたところ、研究業務の質的過重性や契約社員としての不安定な身分についても言及しながら、Mさんの死因は心筋梗塞と考えられる、まだ若く動脈硬化などの基礎疾患や危険因子のない人であっても過重労働により心筋梗塞を発症しうる、Mさんの死亡は過重労働によるものであるという、すばらしい意見書を書いて下さった。
(4) さらに、当時のMさんのチームのリーダーで、平成9年に退職していたA氏と連絡が取れて面談することができた。現在は画家をしているA氏は、自らがアメリカでポスドクをしていた経験もあり、Mさんの優秀さとポスドクとしての大変さを語ってくれ、裁判所への陳述書の作成と、証言を快諾してくれた。このことは、この裁判にとって決定的であった。
(5) 被告国側の証人として、当時の別の上司と同僚が証言台に立ち、Mさんは自分たちよりもずっと早く帰っていた、実験は高校生でもできる楽な作業である、当時の研究テーマには期限やノルマはなかったなどと証言したが、A氏と宗川先生の証言は、これらを圧倒したといえる。
(6) そして、最後に行われたRさんの原告本人尋問の直前になって、Rさんが、Mさんが倒れる前に毎日帰宅時間や疲れている様子をメモした手帳を持っていることが判明した。Rさんは、自分の書いたものだから役に立たないと思っていたのであった。まさに「灯台もと暗し」であった。Rさんは、この手帳に基づいて詳細かつ感動的な証言を行った。

4 本件で勝利することの意義
(1) Rさんは、Mさんが亡くなった当時第2子を妊娠中であり、その後異国である日本で、経済的にも精神的にも、想像を絶する苦労をしながら2人の子どもを育ててきた。
 Rさんは陳述書で、次のように述べている。
「なぜMは死ななければならなかったのか。一生懸命働いて過労死しても、そのことを国も会社も認めてくれないのが悲しい。(中略)中国ではこんなことはありません。Mの悔しい思いをどうしても国や会社にわかってほしいので裁判を起こしました。」
「現在も生活は苦しいです。1日も早く労災を認めてもらい、2人の子どもたちに世間の暖かさ、ぬくもりを感じさせ、子どもたちを安心して育てていけるようにしてほしい。」
「2人の子どもには、Mが立派な研究者であったことを伝えたい。日本でMは過労死したが、日本では命が粗末に扱われない国だと言うことを伝えたい。日本で2人の子どもが胸を張って生きていけるようにしたい。」
 弁護団は、Rさんのこの願いを果たすために、この裁判はどうしても勝利したいと考えている。
(2) 我々が知る限り、研究者の過労死事案は数少なく、しかもポストドクターの過労死の事案は恐らく初めてではないかと思われる。
 この訴訟でMさんの死亡が過労死だと認定されれば、低賃金と不安定な立場で苦しんでいる多くのポストドクターの待遇改善にもつながるであろう。

5 本件で勝利することの意義
本件の行政訴訟は、最終準備書面を提出後昨年11月12日に結審し、来る1月19日には判決言渡しが予定されている。一方、会社を被告とする民事訴訟では、行政訴訟の証言調書を書証として提出された等を検討しつつ、今後の進め方について協議が行われている段階である。
本稿が皆様の目に触れる時には既に行訴の1審判決が出されているが、勝訴・敗訴いずれであっても舞台が控訴審に移ることはほぼ間違いない。
皆様のご支援を、心からお願いする次第である。
(なお、弁護団は京都の竹下義樹、大阪の中筋利朗、上出恭子と私である。)

(追伸)本稿脱稿後の1月19日、行政訴訟の1審判決が言い渡されたが、不当にも敗訴であった。Rさんは控訴して闘いたいとのことであるので、皆様の力強いご支援、ご協力をお願いしたい。
(民主法律276号・2009年2月)