日航機墜落事故30年に思う

2015年8月13日

 1985年8月12日、東京・羽田発のJAL123便が伊豆半島手前付近で垂直尾翼が吹き飛んで制御不能に陥り、迷走の末、群馬県御巣鷹山の山中に墜落し、乗客・乗員524人中520人が亡くなった。この事故から昨日で丸30年が過ぎた。

 この年は、私がようやく司法試験に合格した年であり、5月の択一試験、7月の論文試験を終え、次は9月下旬に論文試験の合格発表があり、合格していれば10月中旬に口述試験を受けに行く、それまでの狭間の時期だった。

 事故のあった時間帯は、和歌山県の私の実家(那賀郡打田町、現在の紀の川市)で、家業のアルバイト(学習塾の夏期講習)を終えた直後だった。テレビで「羽田を出た‥‥便が消息を絶ちました」のようなニュースが流れ、茜がかった夕空を見上げた記憶がある。

 事故の生々しい詳細は、山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」の第3巻「御巣鷹山篇」に、綿密な取材に基づいて書かれている。
 ボイス・レコーダーもほぼ完全に再現され(123~128ページ)、読んでいると苦しくなる。山腹に激突した時の速度は時速600キロ、新幹線の2倍の速度である。幼い子どもの遺体の背中には、衝撃で吹き飛んだ母親のものと思われる母親の下顎の歯が食い込んでいたという(140ページ)。

 30年の節目の昨日と今日、テレビや新聞では事故に至る状況や、乗務員を含む犠牲者や遺族の声が紹介されている。犠牲者の無念さや遺族の辛さに触れるにつけ、涙を禁じ得ない。

 しかし、改めて考えると、この事故は天災ではなく明らかな「人災」である。その原因を究明し、再発防止に万全を期してこそ、真に犠牲者や遺族たちに報いることになるはずである。しかし、そのような検証が十分になされてきたといえるだろうか。

 国家公務員の労働組合「国交労連」の機関紙である国交労新聞1034号(2000年1月1日号)に、山崎豊子さんのインタビュー記事が載っている。そこで、山崎さんはこの小説を書くための苦労や、その中で感じた憤りについて述べている。
 隔壁の修理ミスで事故を起こしながら、全く反省も贖罪の念も示さないボーイング社。取材への協力を拒否しながら、小説の出版後に「組合側に立った一方的なでっち上げの小説だ」という怪文書を流した会社。このような体質が改善されていないとしたら、再び事故が起こらない保証はない。

 むしろ、懸念は広がっている。熟練した機長や客室乗務員に対する大規模なリストラ、安全性の確立と労働条件の改善を求める労働組合の敵視、格安航空会社(LCC)の参入をはじめとする「規制緩和」、そのような中でのパイロットや整備士の不足と過重労働、客室乗務員への契約社員の導入などなど‥‥。

 「沈まぬ太陽」は、2009年に渡辺謙主演で映画化され、映画館まで足を運んで観た。涙が止まらなかった。
 今この時期、改めて、この小説と映画が多くの人々に読まれ、観られてほしいと思う。

(「いわき弁護士のはばかり日記」No.249 2015年8月13日)