今日の朝日新聞の「ひと」欄に、「「熟議は民主主義の魂」と唱える米スタンフォード大教授 ジェームズ・S・フィシュキンさん」が紹介されていた。
熟議──あまり聞き慣れなかった言葉だが、文科省が使ったり、この言葉が標題に入った本が出版されたりして、最近時々目(耳)にする。
「人びとが対話や討議のなかで、みずからの見解や判断を変化させていくこと」「問題に関わる様々な立場の当事者がその問題について学習し「熟慮」と「討議」を重ねながら解決策を見出し、政策を形成していこうとするプロセス」などと定義されている。
語感もよく、大変よい言葉だと思うが、日本人とは最も遠い言葉ではないか。
そもそも日本人は、議論自体をしない。会議でも、発言するのは司会とごく一部の人だけというのが多い。しかも、特に組織内では、ある物事についての純粋な討論というよりは、「その発言者や意見者」に対する態度表明として受け取られる。そして、より深い観点から異論を唱えようとすると、その場の雰囲気や「和」を壊すかのように迷惑がられることが多いように思うのである。
この点、裁判所で行われる裁判官たちの「合議」や、双方の代理人も含めた「進行協議」、代理人弁護士同士の「示談交渉」は、本来の意味での「議論」に比較的近いかもしれないが、「熟議」とまではいえないだろう。
冒頭のジェームズさんは、これまで欧州や中国など20カ国以上で「討論型世論調査」(DP)を行ってきたという。これは、①政策について世論調査を行い、②回答者の中から数百人を一同に集めて徹底討論を行った後、③再度、調査と同じ質問をすると、思いつきでなく考え抜いた回答に変わる。これこそが国民の本当の声だというのである。なるほどな、と思わせるものがある。
本来の討論や議論というものは、論点と問題の所在を確認し、自己の意見の結論と理由を示し、反対意見や異論にも十分配慮を示し、一致点を確認し、相違点へのフォローも忘れない。このような討論こそが「熟議」と呼ぶに値すると思うが、そのようなものを見ることはほとんどない。
NHKの討論番組では時々「さすが」と思わせるものがあるが、「朝までナントカ」とか、「そこまで言ってナントカ」といった類のテレビ番組では、声の大きさや威勢のよさばかりが幅を利かせているし、大阪府知事に続いて大阪市長になった橋下徹氏も、相手に反論を許さない徹底した攻撃ばかりが目立ち(これは相手を打ち負かすための論争=ディベートに過ぎない)、相手の意見に耳を傾け、相手の立場や思いも理解したうえで、共感・共同し合おうという姿勢は見られない。本来、言論の府であるべき国会でさえ、無内容な攻撃的質問と、事なかれ的な官僚答弁、これに対する激しい野次ばかりが目立っている。
もともと民主主義という制度は、利益相反や階級対立関係にある人たち同士も含めた社会が、分裂や内戦を避けるために、「議論を尽くしたことを理由に、多数決で決めた結論を少数者に甘受させるための装置」にすぎず、議論すれば最後は意見が一致するというのは幻想だという見方も可能である。
しかし、そのことを自覚しながらも、粘り強さと、相手の立場に立って考える想像力によって、少しでも真理や長期的な共同利益に近づく努力ができることが、人間のすばらしさではないか。
その意味で、「熟議」ができるようになるには、議論のやり方に慣れることとともに、人格的な陶冶と豊かな感受性が必要ではないだろうか。
※画像は、いずれも文部科学省のHPより。