真実発見の原動力─ある交通事故裁判から─

一 Tさんの妻のMさんは、1991年6月、当時3歳の長女を自転車の後ろに乗せ、当時5歳の長男と一緒に、交差点の手前で信号待ちをしていた。片側一車線の幅はわずか3.2メートル。その前を、幅2.5メートル、長さ11メートルの巨大な引越会社のトラックが通過した。トラックが通りすぎた後、Mさんと自転車が倒れ、女の子が自転車の後ろで泣いていた。Mさんは、トラックの側面のカバーについている小さな鉄の板に頭を接触させて脳挫傷等の傷害を受け、そのまま植物人間になってしまい、現在も病院で寝たきりの生活が続いている。
 事故後直ちに警察による実況見分が行われたが、運転手のⅠさんやその助手は、「自分のトラックが至近距離に近づいたとき、Mさんが突然バランスを崩して倒れ込んできた」と主張し、同じように信号待ちをしていた目撃者のHさんも同じような供述をしたため、結局Ⅰさんは不起訴になった。

二 私は、92年4月、この事故について、夫のTさんから民事損害賠償請求の相談を受けた時、勝算の見込みはかなり厳しいと思った。Ⅰさんの主張を前提とする限り、Mさんの過失は100%に近く、自賠責保険から支払いを受けた後遺障害保険金3000万円を差し引くと、賠償残額は残らないことになってしまうからである。
 しかし、Tさんは、「真実をしゃべれなくなってしまった妻に代わって、自分が真実を発見し、裁判で明らかにしたい」と強く希望した。その熱意の前に、私は「それならやれるだけやってみましょう」と引き受けたのである。

ど三 その後私とTさんは、Tさんが用意した同じ型のトラックに乗って、現実に何度も現場を走ってみた。その結果、道はトラックが走ると一杯一杯であること、道は中央部分がわずかに高く、荷物を満載したトラックが走ると、左側に傾いた状態になることなどがわかった。
 また、Tさんと一緒に、目撃者のHさんにも直接お会いして話をうかがったところ、意外にも、警察に対する供述と異なり、「トラックがやってくる少し前に『ガシャン』と自転車が倒れる音がした。起き上がろうとしているところにトラックが来た」というのである。
 次にTさんは、道路の反対側に停車していたという車の運転手のEさんを探し出してきた。この人は、警察でさえ見つけられなかった人である。Eさんによれば、「『ああっ』という女の人の声がしたので振り向くと女の人が倒れていくのを見た。その時トラックが40~50メートル手前からこちらに向かっていた」というのである。
 これらの証言を併せると、Mさんは、トラックがまだ事故現場の40~50メートル手前にあったころに、バランスを失って倒れ、起き上がろうとしているところへ、トラックがやってきて接触したということになる。もしそうだとすると、Mさんの過失は否定できないものの、トラック運転手のⅠさんは、注意すれば事故は避けられたことになり、過失割合が相当変わってくることになる。
四 そのような調査を経て、平成6年3月、裁判を起こした。裁判では予想どおり、本件事故の状況が争点となり、約1年半にわたって双方の激しい論戦とEさん、Hさん、Ⅰさんの証言がなされた。

五 その後裁判所から和解の勧めがあり、そこでも過失割合や損害額の計算の仕方について激論が交わされたが、加害者側が一定の額を支払うことで、この2月末和解が成立した(私としては和解の金額には不満はあったが、法廷で真実を明らかにしなければ到底考えられない和解内容であった。明るくて誠実なTさんの、妻のMさんに対する愛情が、真実を発見させ、その重みが加害者側を譲歩させたと言えよう。私はTさんに、判決や控訴の説明もしたが、Tさんは「事実を法廷で明らかにできたので、私はこれで十分満足しています」と言ってくれ、和解に応じることにした。

六 この事件を通じて私は、弁護士は最初からあきらめることなく、依頼者と一緒に自ら現場に行き、また証人を訪ねて、直接話を聞くことの重要性、また、人が裁判を起こすのは、単に経済的な必要からだけではなく、それ以上に、真実を発見したいという気持ちが重要な動機である場合もあることを改めて知った。
Tさんとはこの事件を通じて個人的にも親しくなり、年に何回かTさんらが自分たちで作ったログハウスで、家族ぐるみで一緒に過ごさせてもらったりしている。弁護士としてとても嬉しいことである。

【弁護士 岩城 穣】

(いずみ第3号「弁護士活動日誌」1996/5/25発行)